武辺寛則さんはガーナ・アチュワ村をパイナップル特産品で救った日本人名誉酋長・英雄!

海外で活躍した日本人の英雄を言われる人。

ガーナ共和国にあるアチュワ村で今でも語り継がれている

元JICAのボランティア隊員の英雄・偉人がいます。

その方の名前は、「武辺寛則さん」

 

ガーナ国内でも特に貧しい村の一つだった、当時のアチュワ村。

電気や水道が通っておらず、年間を通じて厳しい干ばつが続く酷暑地帯であり、

一日の飲水はコップ一杯だけ、

2人に1人はマラリアで命を落とすといわれるほど・・・

の過酷な状況の中、村民はその日を生きるのが精一杯でした。

 

その地で奮闘し、事故で亡くなられてしまった彼の偉業を紹介したいと思います。

ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。

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プロジェクト失敗からの運命の食物との出会いとは?

青年海外協力隊(JICA)のボランティア隊員として研修を経て、

1986年、25歳時にガーナ共和国、アチュワ村に派遣された武辺さん。

 

実は大きな使命を与えられていました。

武辺さんの派遣以前に、現地で2人活動していましたが、成果なく、

アチュワ村民の貧しい生活を向上させる手段はなかったそうです。

「ghana drought」の画像検索結果

派遣される前に、所長からの告知があり、

武辺さんの任期2年中に新たな産業を起こし、村を少しでも豊かにすることで、

成果を出せなければ、今後の隊員派遣は打ち切る!といわれ崖っぷちでした。

武辺さんは、村での生活状況を改善すべく、アチュワ村の農業改革に乗り出します。

 

村人たちの貧しい生活環境、厳しい自然環境、現状の切実な問題、

青年会議協力隊員(JICA)に対する不信感、未来・夢がないなど・・・

すべてのことに疲れており、

情熱に燃えている武辺さんの未来志向についていけませんでした。

アチュワ村を襲った大干ばつ、養鶏プロジェクトの失敗、資金難、生活苦、

村人からの非難で負の要素が溢れていた時でも武辺さんは村を救う方法を考え続けます。

一時的に食料を確保したり、物資を供給するのではなく

「村の未来を託せる物」

「必要経費が少なく、村人が積極的に参加しやすいプロジェクト」

 

武辺さんは毎日、村中を探し続けた時のことです。

干ばつでも枯れることなく実った果実、「ファンティパイナップル」を

持っている村人と出会い、運命が啓けました。

 

アチュワ村では、数名の村人が

自分で食べるためだけに栽培していた果物でしたが、

実は、ガーナ国内、特に首都のアクラで高価ですが大人気。

ファンティパイナップルは、

一般的なパイナップルよりも小さく青みがかっていますが、

酸味が少なく 甘みが強いため、人々から愛されていました。

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武辺さんは、これだ!と思いましたが、栽培するには問題が・・・

ファンティパイナップルは苗代も高く、収穫までに1年半も栽培期間がかかること。

しかし、ファンティパイナップルは、1本につき5〜6本の苗が生えるため、

最初の苗さえ購入すれば、毎年増えていくことは目に見えています。

 

アチュワ村の人々は、以前から手軽・短期間・安く購入できるトウモロコシなどの

作物を栽培していましたが、武辺さんはここで行動に移します。

資金援助を日本大使館へお願いします・・・が、良い返事がもらえませんでしたが、

そこであきらめずに、他国の大使館を駆け回り、

苗を購入するための資金援助のお願いをして回りました。

 

その一か月後、アチュワ村にファンティパイナップルの苗が届き始め、

いよいよプロジェクトが始動し始めました。

 

武辺さんの未来計画に賛成してくれたアチュワ村民は、村人の3分の1、約65人でした。

まず、パイナップル栽培用の畑を作るため、ナタ一本で山の木を切っていき、

畑を一から開墾しはじめました。

 

さらに、問題は、パイナップル栽培方法を知っている人がいなかったこと。

 武辺さん自身、農業は全くの素人。

最適なパイナップルの栽培法の情報を求めて、ガーナ中を飛び回り、

農業指導をしているJICA隊員に相談し、日中は気温40度を超す酷暑の中で働き続け、

夜は土壌改良の方法など農業の専門書を読み漁りました。

「takebe Ghana」の画像検索結果

武辺さんはパイナップルの栽培希望者約70名をまとめるために

「アチュワ村パイナップル協会」を設立しました。

会員たちの連帯感や責任感を促すため、全員から会費を徴収し、

その会費を協会の活動の資金としました。

当初は反対意見も多く出たそうですが、根気強く会員たちを説得し続け、

協会運営を安定するよう努力したそうです。

また同時に、パイナップル畑に通い続け、毎日、

どのような気象条件の時でも根気よく苗の状況を確認し対処していったそうです。

このような武辺さんの行動・活動がアチュワ村の人々の心に響き、

信頼関係を育んでいきました。

 

武辺さんは、パイナップルの市場を拡大するため国外への輸出を計画しました。

事業が村に定着するまでの活動を続けるため、任期を一年延長しましたが、

残念なことに不慮の事故で亡くなってしまいました。

 

葬儀はアチュワ村で開かれました。

長老によって「野口英世は偉大な先駆者だったが武辺は我が国の農業の先駆者でした」

と語る言葉で締められたそうです。

武辺さんが亡くなった後も、武辺さんの夢を引き継ぐことを決意した村民は、

パイナップル栽培が継続しました。

(写真1)慰霊碑 (写真2)TAKEBE  SCHOOLロゴと副校長

実は、亡くなる半年前に武辺さんは遺書を残していました。

その中には、「自分で選択した道だから後悔はない」という思い、

自分の死によって渡される弔慰金を恵まれない人に使うように・・・

母に託したものでした。

「無知こそが貧困の根源」という武辺さんの生前の言葉を思い出した両親は、

武辺さんの意志を継ぎ、葬儀で寄せられた弔慰金を子どもの教育に使ってほしいと、

アチュワ村の保育所兼小学校の建設のために寄付し、設立しました。

また半年後には、現地に「タケベガーデン」と名づけられた記念公園ができ、

武辺さんを偲び、功績を讃えるパイナップルの慰霊碑も建てられました。

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最後に

いかがでしょうか。

 

パイナップル畑は現在、見渡す限り一面に広がっているそうです。

武辺さんの思いは、確実に村人たちに受け継がれ、

パイナップルは世界中に出荷されています。

また、その収入で村には電線が通り、水道も整備されました。

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武辺さんは当時の手記に「意志あるところ、道は通じる」と書き記し、

アチョワ村で活躍を誓っています。

多くの人の力、思い、今だけではなく未来へ向けてつなげていく大切なことを

今回は武辺さんの活動を通して学ぶことができました。

武辺さんが活躍する前に行かれた隊員の方たちも果てしない中、

暗中模索で頑張れたことでしょう。

このように世界中で活躍されている日本人の方たちを尊敬すると共に

今後も活躍されるであろう多くの方々を応援し続けたいと思いました。

 

今回の記事は、ファンティパイナップルとの運命の出会いのいきさつについて紹介しました。

こちらの記事では、武辺さんのプロフィール、苦労、名誉酋長になったいきさつなどについて紹介しています。

⇒ ガーナで活躍、武辺寛則(JICA)さん!貧困アチュワ村を救った日本人偉人、名誉酋長

参考になる部分も多いと思うので、ぜひ一度目を通していただけると幸いです。

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