ガーナで活躍、武辺寛則(JICA)さん!貧困アチュワ村を救った日本人偉人、名誉酋長

あるきっかけで知った海外で活躍した日本人の英雄がいます。

その活躍された場所は、ガーナ。

ガーナ共和国で有名な日本人といえば、黄熱病の研究をし、

それが原因で亡くなった野口英世さんがいますが、もう一人・・・

そのガーナの中で、貧しかったアチュワ村で奮闘し、

今でも現地の人から感謝され続けています。

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今回は、その気になる人、「武辺寛則さん」を紹介したいと思います。

ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。

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ガーナで活躍した日本人、武辺寛則さんとは?

気になる武辺さんのプロフィールは・・・

名前は、武辺 寛則(たけべひろのり)さん

1961年生まれ

長崎県佐世保市出身

大学卒業後、福岡で就職

25歳で退職

青年海外協力隊に参加

1986年にガーナ共和国へ

27歳で現地にて事故により亡くなる

武辺さんは、ガーナの人々を貧困から救うために人生を捧げ、

村の長老となり27歳という若さでこの世を去りました。

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なぜガーナ共和国に?現地で何をしていたのか?

10歳の時に新聞記事の影響で「アフリカの貧しい人を救いたい」と

思うようになったことが彼の運命に影響します。

 

大学卒業後、福岡の商社へ就職しました。

しかし入社して2年、夢を捨てきれず・・・

25歳の時に退職し、青年海外協力隊(JICA)のボランティア隊員として研修を経て、

1986年、ガーナ共和国、アチュワ村に派遣されました。

アチュワ村は、ガーナの首都アクラから西に120㎞離れたエクムフィ郡にあります。

これが、武辺さんがガーナに赴いたきっかけです。

 

当時のアチュワ村の生活は、電気や水道が通っておらず、

年間を通じて厳しい干ばつが続く酷暑地帯、一日の飲水はコップ一杯だけ、

2人に1人はマラリアで命を落とすといわれるほど・・・

ガーナ国内でも特に貧しい村の一つでした。

村の人々は、その日を生きるのが精一杯という状況で、

彼らの貧しい生活を向上させる手段はなかったそうです。

 

実は大きな使命を与えられていました。

武辺さんの派遣以前に、現地で2人活動していましたが、成果なく、

アチュワ村民の貧しい生活を向上させる手段はなかったそうです。

 

派遣される前に、所長からの告知があり、

武辺さんの任期2年中に新たな産業を起こし、村を少しでも豊かにすることで、

成果を出せなければ、今後の隊員派遣は打ち切るといわれました。

武辺さんは、村での生活状況を改善すべく、アチュワ村の農業改革に乗り出します。

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アチュワ村の農業改革は苦難の連続だった?!

希望を胸にアチュワ村の農業改革に乗り出した武辺さんですが、

すぐに現実を知ることになります。

 

村人たちの貧しい生活環境、厳しい自然環境、

未来を考えることができない現状の切実な問題、青年会議協力隊員に対する不信感、

などすべてのことにあきらめのような空気が流れ、

情熱に燃えている武辺さんの未来志向についていけませんでした。

 

悪いことが続きます。

武辺さんが派遣されてから3か月、アチュワ村は大干ばつに見舞われました。

自給自足で育てている主食のトウモロコシなどの農作物に壊滅的な被害が出、

村人が次々とアチュワ村から出ていくことでした。

「Ghana drought」の画像検索結果

武辺さんは干ばつに強い植物の情報を聞けつけ、何十kmも離れた村を訪ね歩き、

またガーナに来ている先輩隊員たちに連絡して、作物の苗をわけてもらったそうです。

様々な支援団体に食料援助を要請し、アチュワ 村は何とかおちつきましたが、

干ばつが起きる度に繰り返される村人たちの飢えに苦しむ構図は繰り返されます。

 

武辺さんは村を救う方法を考え続けます。

一時的に食料を確保したり、物資を供給することはできるが、

一時しのぎではなく「村の未来を託せる物を見つけなければならない」という思い。

「養鶏 ガーナ」の画像検索結果

そこで思いついたのは、養鶏です。

武辺さん自身のお金を使ってヒヨコを購入し養鶏を始めました。

しかし、アチュワ村は自分たちの口にする食料・作物すら満足に収穫できない場所。

養鶏に必要なヒヨコの飼料すら十分に確保できません。

大雨による水害、鶏舎が蟻の大群に襲われたりしたこともあったそうです。

そのため、未来に対するプロジェクトはことごとく失敗し、

アチュワ村の人々は、プロジェクトでなく、その資金を物にして送るよう求めました。

 

養鶏プロジェクトの失敗をふまえて、武辺さんはプロジェクト案に試行錯誤します。

「必要経費が少なく、村人が積極的に参加しやすいプロジェクトがないか?」

武辺さんは毎日、村中を探し続けました。

ある日、干ばつにも枯れることなく実った果実、「ファンティパイナップル」を

持っている村人と出会いました。この出会いが運命の決定づけたのです。

「Ghana Jica Takebe」の画像検索結果

運命の出会い、プロジェクトの進行している中でも不運は続きました。

武辺さん自身がマラリアを発症し、40度を超える高熱で死にかけたそうです。

疲労が蓄積し、極度に免疫力が低下しており、

3か月で体重は81kgから60kgまで落ち、瀕死の状況でした。

 

最後の最後まで事件が起こります。

それは武辺さん自身の死。

ファンティパイナップル畑で育つパイナップルの収穫まであと半年のことでした。

村内で急病人がおり、武辺さんが運転して隣町に運ぼうとした矢先の出来事でした。

ハンドル操作を誤り、トラックごと道路から転落した武辺さん。

懸命な治療の甲斐なく、1989年2月25日に27歳の若さで亡くなられました。

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武辺さんは、アチュワ村の長老になったいきさつは?

生前の武辺さんのひたむきな姿に日本人、JICA職員に不信感を持っていた人々の

心が動き始めました。

村民の中には、武辺さんに

「ずっと村に残ってくれないか?」と言う人もいたそうです。

 

武辺さんは

「僕なんかいなくても、君たちだけの力でやっていけるようになる。」

「いつかは村を離れる人間なので、責任ある仕事はとてもできない」と断ったそうです。

1週間後に長老の1人が再びやってきて、

「たとえ日本に帰ってもナナ・シピになっていれば、きっとアチュワ村のことも忘れないだろう。」

「それにもう1年以上ガーナにいるのだから、是非とも引き受けてもらおうと話し合いで決まった」と告げられました。

そして、武辺さんはナナ・シピに就任しました。

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村の発展のために全力で働いてきた功績が認められ、

1988年9月のアチュワ村収穫祭の日に、

わずか26歳、伝統衣装と装身具を身にまとい、

アチュワ村で初めて日本人が村の名誉酋長(ナナ・シピ)に任命されました。

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最後に

いかがでしょうか。

 

武辺さんは事故で亡くなりましたが、

その後、村民たちは武辺さんの夢を引き継ぐことを決意し、

今でもパイナップルを作り続けています。

 

実は、武辺さんの手記に

「意志あるところ、道は通じる」

という決意の言葉が記されています。

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わずか2年で、プレッシャーと過酷な状況にもかかわらず、

ガーナの方々、アチョワ村のことを考え、未来を信じ歩み続けた武辺さん。

想いの詰まったパイナップルを見ることもかないませんでしたが、

その熱意、ひた向きな姿は多く人の心を動かしました。

「意志あるところ、道は通じる」

彼の想いがこれからも日本、ガーナの方々の間で引き継がれていければ・・・と思います。

 

今回の記事は、武辺さんのプロフィール、苦労、長老になったいきさつなどについて紹介しました。

こちらの記事では、ファンティパイナップルとの運命の出会いのいきさつについて紹介しています。

⇒ 武辺寛則さんはガーナ・アチュワ村をパイナップル特産品で救った日本人名誉酋長・英雄!

参考になる部分も多いと思うので、ぜひ一度目を通していただけると幸いです。

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