関ヶ原の戦いで天下人となった徳川家康。
しかし江戸幕府初期は、ただならぬ難問が山積みだったようです。
多額の戦費浪費による経済困窮、
豊臣秀吉の朝鮮侵略の傷跡が国内外にあり、
中国や朝鮮半島との関係は悪化したまま・・・
これら難題に立ち向かった徳川家康の二人の側近の内、
大航海後に来日し、徳川家康の外交指南役としてグローバルな世界観を伝え、
活躍したのは、英国人ウイリアム・アダムス。
戦国時代を乗り越え、江戸幕府が敷かれた際に尽力したこの方が気になり
調べてみましたので紹介したいと思います。
ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。
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徳川家康の側近、ウィリアム・アダムスの生い立ちとは?
イギリス人のウィリアム・アダムス(William Adams)
1564年9月24日生まれ、イングランド南東部のケント州ジリンガム出身
1620年5月16日他界
江戸時代初期に航海士として来日し、後に徳川家康の信頼を得て日本国内で活躍、
水先案内人・貿易家でもあります。
その功績から、「三浦按針(みうらあんじん)」という名前を貰い受けました。
実は日本にくる以前に、イングランドに奥様メアリー・ハインさんと
2人のお子様(娘デリヴァレンスと息子ジョン)がいたそうです。
日本に来てから日本人妻と2人の子供(ジョゼフ、スザンナ)をもうけました。
なぜ航海士に?遠い日本に来ることになったのか?
船員だった父を亡くして故郷を出、12歳頃ロンドンのテムズ川北岸の
ライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りをしました。
造船術を学びましたが、同時に学んだ航海術に興味を持ち、
1588年に奉公を終えたと同時に海軍に入りました。
フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船
リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加しています。
1589年にはメアリー・ハインと結婚し2子(娘・デリヴァレンスと息子・ジョン)を
授かりましたが、軍を退官してロンドンにある会社の航海士・船長として
北方航路やアフリカへの航海で多忙であったため、
ほとんど家に戻らなかったようです。
なぜ遠い日本に来ることになったのか?
航海で共に仕事をするオランダ人船員と仲良くなったウィリアム・アダムスは、
オランダ・ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士募集に
弟のトマスらと共に志願し、船員として雇われました。
![「william adams japan」の画像検索結果](https://samurai-world.com/contents/wp-content/uploads/2018/05/Adams2.png)
航海は5隻からなる船団で、フライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、
リーフデ号とホープ号。
アダムスをホープ号の航海士として採用され、
1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航しました。
マゼラン海峡を抜けるまでの間に、
弟・トマスとともにリーフデ号に配置転換されることとなります。
実は航海は難航の連続で、ウィリアム・アダムスの乗ったリーフデ号以外の
トラウ号、フライデ・ボートスハップ号、ヘローフ号、ホープ号は
ポルトガル・スペインに拿捕、航海の中止、沈没などで、
残された船はリーフデ号のみとなりました。
食糧補給のために立ち寄った港で赤痢や壊血病が流行し、
さらに原住民などの襲撃もあり、弟トマスも殺害され・・・
出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までに24人になっていました。
1600年4月29日、関ヶ原の戦いの半年前に
豊後臼杵の黒島に、オランダ船リーフデ号は来航しました。
なぜ徳川家康と知り合うことになったのか?
豊後臼杵城主・太田一吉からの報告で長崎奉行の寺沢広高は、
ウィリアム・アダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲、火縄銃、弾薬などの
武器を没収し、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎました。
当時、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長に代わり、
ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、
メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、
5月12日、徳川家康は初めてウィリアム・アダムスらと引見しました。
![「William Adams」の画像検索結果](https://i.dailymail.co.uk/1s/2019/04/03/09/11800474-6880893-image-a-23_1554281513121.jpg)
当時日本にいたイエズス会の宣教師たちが
「オランダ人やイングランド人は海賊のため即刻処刑するよう」
要求していたそうで、徳川家康も初めて会った際は海賊と思っていたようです。
しかし、航海の路程、航海目的、宗教上の対立(オランダやイングランドなど
プロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争)を
真摯な態度で説明する彼らを見て、徳川家康は特にウィリアム・アダムス、
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインを気に入り、最終的に釈放し、
江戸に彼らを招きました。
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最後に
いかがでしょうか。
オランダから極東に向けてでた5隻の船の内、残った最後の一隻でかつ、
乗組員もほんの一握りです。
また、民族・文化など全く異なる異世界、日本に来たのですから
本当に苦労されたことでしょう。
実は彼はイギリスに戻ることを希望していたそうですが、
当時の徳川家康が許可を下ろさなかったとか。
様々な葛藤、駆け引きがあったと思います。
![「william adams japan」の画像検索結果](https://previews.agefotostock.com/previewimage/medibigoff/6b0b6e5ab65b6fb1823c2dab82e8a118/gbp-cpa006232.jpg)
次回は、この続き、日本名を名乗ることになり、その後の彼の人生について
紹介したいと思います。
⇒ ウィリアム・アダムス(三浦按針)とは?徳永家康の側近、外交指南役・顧問は英国人航海士②
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