肥沼信次医師とは?戦後ドイツで伝染病・発疹チフスと闘った日本人・桜[世界ナゼそこ]

テレビ番組「世界ナゼそこに日本人」(毎週月曜日21時00分~21時54分)で

2019年3月4日(月)に

【偉人伝説】ドイツで難病から人々を救った

伝説の日本人医師という放送があります。

 

戦後ドイツに自らの命を顧みず人々を救った伝説の日本人医師がいた!

恐ろしい伝染病と戦い「神様」と語り継がれる彼が成し遂げた大偉業とは?

死から43年後に起きた奇跡とは?

とあり、気になり調べてみましたので紹介したいと思います。

病気に立ち向かった勇気、情熱について、

ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。

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ドイツで病気に立ち向かった日本人医師とは?

第2次世界大戦前のこと。1人の日本人医師が研究のためにドイツへ旅立ちました。

戦後で荒れたドイツの田舎で大流行した恐ろしい伝染病。

村全滅寸前の大ピンチに陥った際に、勇気をもって病気と闘ったとして、

歴史的な偉業で今でも語られている、その日本人医師の名前は、

肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)さんです。

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肥沼医師はなぜドイツに?経歴は?

東京都八王子出身の肥沼医師。

1908年10月9日生誕、1946年3月9日死没されました。

日本の医学者で第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力し、現地で病没されました。

ドイツ・ヴリーツェン市名誉市民。医学博士(フンボルト大学ベルリン)でもあります。

 

生い立ちは・・・

父親は、済生学舎に学んだ軍医で、八王子市中町で医院を開業していました。

兄弟は、弟2人、妹1人。

東京府立二中(現、東京都立立川高校)を卒業した後、

医学を志して1浪し、1929年4月に日本医科大学に進み、

1934年に東京帝国大学放射線研究室へ入局されました。

 

1937年、日本政府の国費留学生としてドイツに渡り、

感染症研究所であるロベルト・コッホ研究所を経て、

1937年7月にベルリン大学医学部放射線研究室の客員研究員となられます。

実験と研究に打ち込み、1944年には同大医学部研究補助員として採用、

ベルリン大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得されました。

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終戦直前、ベルリンが陥落する前1945年3月に、日本大使館が

バート・ガスタインに避難させた在留邦人のために帰国船を準備しましたが、

肥沼さんは当日姿を現さず、消息が途絶えました。

 

その帰国しなかった理由はなぜか、不明だそうです。

肥沼医師は、ドイツ軍人のシュナイダー未亡人母娘とともに

ベルリンから東北部の町エーヴェルスヴァルデに避難しました。

 

なぜ恐ろしい伝染病対策に立ち向かったのか?

第二次世界大戦直後、ドイツ占領ソ連軍地区司令部の

シュバリング司令官から指令が届きました。

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内容は、隣町のリーツェン(;Wriezen)の伝染病医療センター初代所長に

肥沼医師を任命するというものだったそうです。

というのは、多くのドイツ人医師は徴兵されており、

かつ、ドイツとポーランドの国境付近に位置する町は戦争の影響を大きく受け、

水道施設や変電所などのあらゆるものが破壊されており、

不衛生な環境に陥ったリーツェンでは伝染病の発疹チフスが大流行しており、

急務だったそうです。

日本人の肥沼医師に白羽の矢が立ち、1945年8月にリーツェンへ移動し、

発疹チフス・コレラなどの伝染病疾病対策に力を尽くしました。

「肥沼信次」の画像検索結果

残念ながら、肥沼医師自身もその4か月後に発疹チフスに罹患し、

1946年3月9日、37歳で死去されました。

 

肥沼医師の没後43年目に起きた奇跡とは?

1989年、朝日新聞に「コエヌマノブツグをご存知の方はいないか」

という記事が、尋ね人欄に載りました。

実は、リーツェン近郊の郷土博物館館長ラインハルト・シュモーク博士が、

地元で亡くなった日本人医師コエヌマに興味を持ち、

アレクサンダー・フォン・フンボルト(AVH)財団の研究所長経由で

ベルリン大学で同僚だった数学思想史家、村田全教授に

投稿依頼の問い合わせをしたものだったそうです。

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この問い合わせの記事に気づいた肥沼医師の弟の栄治さんが

返信したことがきっかけで、ドイツと日本の間で交流が始まり、

1992年にリーツェン市は肥沼医師に名誉市民の称号を与えました。

1994年には同市で記念式典が開かれ、

伝染病医療センターのあった市庁舎前に大理石の記念銘板が設置されました。

「肥沼信次」の画像検索結果

死の間際に肥沼医師が残した言葉があります。

それは・・・「もう一度桜が見たかった。みんなに桜を見せてあげたかった。」

間近で共に働いていた看護師がきいたこの肥沼医師の言い残した言葉を受け、

弟の栄治さんが100本の桜の苗木をリーツェン市に贈られました。

「肥沼信次」の画像検索結果

現在は「ドクター・コエヌマ・ビーチパーク」と名付けられた運動施設が

当地にあります。

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最後に

いかがでしょうか。

 

実は、後日談もあります。

それは、先日起こった東日本大震災の後のこと。

ドイツ、リーツェンの市民や高校から、肥沼医師への恩返しとして、

義援金7,000ユーロ(約76万円)が八王子の高校に託され、

岩手県の釜石、陸前高田、大船渡の3市の中学校に寄贈されました。

 

戦中、戦後の激動の時代、ドイツに残り、

現地の方たちの苦しみ・恐ろしい病気の対策のために命をささげて頑張った肥沼医師。

その想いを汲み、両国の間に絆を作ってくれた先人、日本人の偉業を

私たちは知り、後世に伝えていくべきだと改めて感じました。


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