テレビ番組「激レアさんを連れてきた。」(毎週月曜日23時20分~24時20分)にて
2019年1月14日に
「少年院で反省文を書き過ぎたあまり文章力がメキメキ上がり、
敏腕新聞記者になった元暴走族」
という放送があります。
少年院?元暴走族?人生大逆転!異色すぎる経歴の敏腕新聞記者が登場!
とあり、かなり気になり調べてみました。
その方は、吉永拓哉さん。
現在も日本とブラジルをはじめ南米との懸け橋になるべく
精力的に活動をされていらっしゃいます。
そこで今回は、吉永拓哉さんのことを紹介したいと思います。
是非最後まで読んでいただければ幸いです。
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新聞記者・元暴走族の吉永拓哉さんのプロフィールは?
名前は、吉永拓哉(よしなが たくや)さん
1977年9月22日生まれ
福岡県福岡市出身
ニックネームは、「ブラジル番長」
ご家族は、父親はコーヒー会社経営、母親は料亭の娘
3人兄弟の長男。
次男は絵本作家のよしながこうたくさん、末妹はイラストレーターのYURIさん
2010年にご結婚されているようです。
特技は空手!
新聞記者(サンパウロ新聞社)、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、
フリーライター、カフェ経営などで活躍されています。
2019年1月1日付の紙面を最後に、サンパウロ新聞は
読者減少による経営難のため廃刊となってしまいました。
なぜ吉永拓哉さんは、ブラジル番長と呼ばれるようになったのか?
なぜ吉永拓哉さんのニックネームは、「ブラジル番長」なのか・・・というと、
20歳代の頃にリベルダージ東洋人街の暴れん坊(番長)だったこと、
また次弟さんで絵本作家のよしながこうたくさんの代表作「給食番長」のモデルが
長男でもある吉永拓哉さん自身だったことより・・・
「ブラジル番長」と呼ばれ始めたそうです。
そしてコラム作家として福岡の情報誌「シティ情報ふくおか」で
コラムを書いていた際のタイトルが「ぶらじる番長モノ申ス!」で連載していたこと、
テレビ西日本の「ドキュメント九州」で吉永さんの活動を紹介した番組の
タイトルが「ブラジル番長」だったこと・・・
このことで、「ブラジル番長」というニックネームが定着したと言われています。
元暴走族・少年院で生活した吉永拓哉さんの経歴は?
1991年 中学校2年生時、校内でシンナー吸引が発覚。学校側から登校を拒否されました。
1993年 15歳の時、背中に龍の刺青を入れたそうです。
1995年 福岡市内指定暴走族グループ「鬼姫」副総長を務めました。
1996年 校内でのマリファナ吸引が見つかり、定時制高校2年生時中退。
1997年 罪状・覚せい剤取締法違反、共同危険行為(暴走行為)、暴力事件のため
逮捕され、少年院へ送致されました。
20歳を迎え、仮退院をした後、社会復帰されます。
この少年院で過ごした時に反省文を書き過ぎて?!文章力がメキメキ上がり、
後に敏腕新聞記者になったを言われています。
少年院出所後の吉永拓哉さんの経歴は?
新天地を目指して南米へと渡られてからも、苦労・生命の危機にあっているようです。
1998年 エクアドルのバナナ農園で働き始めますが、外国人から拉致され、間一髪で脱出したそうです。
同年、ペルーの民芸品店で働き、アンデス山脈を旅行しました。
1998年、ボリビアのコチャバンバ市にて不法入国容疑で連行されたそうですが、後に誤解が解けて釈放されました。
1999年 ブラジル東北部でラブホテルの従業員として働き始めました。
2000年 日本と南米の架け橋役になることを決意し、日本に凱旋帰国。
地元博多で不良少年改心の会「フロンティアクラブ」を設立
南米の物産販売会社を設立
「エクアドルの日本人」を自費出版
2001年 ブラジル永住権を求めて、再びブラジルに戻りました。
アマゾンの奥地に住み、日本人移住者からお世話になったそうです。
その後、ブラジル南部のカウボーイの町に移ります。
2002年 日本へ一時帰国し、この期間に福岡を訪問したペルー・フジモリ元大統領のSPを務めたそうです。
2003年 ブラジルのギャング団に命を狙われ、間一髪で日本に逃げ帰られました。
商談のためペルー、チリ、アルゼンチンを渡り歩き、再びブラジル永住権を志し始めました。
2004年 ブラジルの永住権を取得し、ブラジルへ渡りました。
ブラジルのサンパウロ市リベルダージ東洋人街に本社がある日刊邦字紙「サンパウロ新聞社」に入社し、社会部記者として活躍されます。
ブラジルのテレビCM「フィリップス省エネ電球の宣伝」で僧侶役として出演しました。
2006年 日本へ帰国し、サンパウロ新聞社福岡支局を設立し、福岡支局長として活躍されています。
NPOチャレンジ・ブラジル福岡支部を開設。
元ヤン・イラストレーター、コラムニストとしてデビューもしました。
2007年 新聞連載のためブラジルへ出張し、アマゾンの奥地をバイクで旅行しましたが、この際、強盗団による銃撃戦に巻き込まれ、命拾いしたそうです。
日本に戻り、イラストレーター3兄弟の血族事務所「スタジオ・エドマッチョ」を設立しました。
また、福岡の情報誌「シティ情報ふくおか」にてコラム「ぶらじる番長モノ申ス!」の連載。
2008年「ぶっちぎり少年院白書」を全国出版し、作家としてデビューもされました。
一覧で見ると・・・かなり壮絶な経験をされています。
命辛々、逃げ延びた経験もあり、かなり強運を持っているのではないでしょうか。
人生大逆転した吉永拓哉さんの現在の活動は?
日本とラテンアメリカの架け橋として活動
サンパウロ新聞社に記事を配信・取材活動(2019年1月1日付でサンパウロ新聞は廃刊になってしまいました)
在日ラテンアメリカ人との交流
ブラジル相談窓口
アルベルト・フジモリ元大統領の支援
ヤンキーアートを展開 など
2008年に自叙伝「ぶっちぎり少年院白書」(二見書房)を刊行したことを機会に、
少年院出院者の自助グループをはじめ、
南米での体験や非行少年の立ち直りをテーマとした講演活動を
様々な公的機関や企業などで行われています。
ジャーナリストとしては、ブラジルやペルーで暮らす日本人移住者を訪ねて取材し、
移住者たちの歩んできた人生を日本語で後世に残す活動もされているそうです。
2014年より天神三丁目町内会会長(親不孝通りエリア)就任、
まちづくり協議会副会長をされています。
舞鶴校区と協力しながら親不孝通りの活性化にも力を入れられています。
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最後に
いかがでしょうか。
以前、小学校に読み聞かせを友人がしている際に紹介して人気だった絵本で、
私も大好きな「給食番長」のモデルが吉永拓哉さんと知り、今回はかなり驚きました。
幼少期より、多くの経験・失敗・生命の危機などを体験してきた吉永さんだからこそ
語れる人生経験・キャリア形成などがあることでしょう。
また、日本と南米大陸へ移住した日系の方々との懸け橋として努力もされており、
今後の益々のご活躍を期待し、応援したいと思いました。
長文を読んでいただき、ありがとうございました。
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