天才発明家、田中久重!からくり人形職人・万年時計・東芝の礎を築いた先駆者[知恵泉]

テレビ番組「先人たちの底力 知恵泉」(毎週火曜日22時00分~22時45分)で

2018年12月25日に 

「ものづくりの先覚者 田中久重 アイデア生む極意とは」という放送があります。

 

田中久重という名前は聞いたことがあるけど・・・

どのような人物がうろ覚えだったため調べてみました。

彼は、江戸末期から明治にかけて、

日本の近代化の礎となった発明を次々と打ち出してきた日本を代表する人物です。

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実は、からくり人形師の職だけだと思い込んでいた私は、田中久重が、

職人の域にとどまらず、発明家、晩年にはエンジニアの先駆けとして活躍していたことを知り、

驚きました。

 

そこで今回は、田中久重のことについて・・・紹介していきたいと思います。

是非最後まで読んでいただければ幸いです。

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天才発明家、田中久重とは?

名前は、田中 久重(たなか ひさしげ)さん

1799(寛政11)年10月16日生まれ、1881(明治14)年11月7日逝去

福岡県久留米市出身。

「田中 久重」の画像検索結果

幕末に佐賀藩や久留米藩に招かれて、蒸気機関や大砲を研究開発し、

近代日本の科学技術のさきがけとなりました。

芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者です。

父親は、鼈甲(べっこう)細工師・田中弥右衛門。

田中久重は長男で、幼名は儀右衛門といいます。そのことから・・・

「からくり儀右衛門」の異名をもっています。

また、別名「東洋のエジソン」とも言われました。

 

鼈甲細工師であった父の仕事を見ながら育った田中久重は、

その精緻な金属細工が施される工芸に魅了されました。

高度な技能、手業を目の当たりにしながら、次第に創意工夫が人々を驚かせ、

喜ばせる術であることを知ったことが、後の発明・開発の基礎になった!

といっても過言ではないでしょう。

 

からくり人形、久留米絣の絵絣機、万年時計、

さらに蒸気船など多くの発明品を開発しました。

「田中 久重」の画像検索結果

からくり人形師として大成功を収めた田中久重は、

「人々の悩みをものづくりで解決する!」という志を立て、発明を多くしました。

 

明るさはろうそくの10倍、長時間の点灯が可能な「無尽灯」、

西洋時計と和時計の他、二十四節気まで表示できる、画期的な「万年時計」

を作ったことで有名です。

 

さらに50歳を過ぎて、蘭学者の元で翻訳書から西洋の科学を学び、

国産初の実用蒸気船を作るほど!情熱をもってアイデアを実現してきまいした。

晩年は、東京の銀座に電信器などの工場兼店舗を設立し、「東芝」の礎を築きました。

 

からくり人形師、田中久重とは?

幼い頃から、手先が器用で、才能を発揮していました。

わずか9歳にして開かずの硯箱を作ったそうです。

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福岡県久留米市にある五穀神社の祭礼で、当時流行していた「からくり人形」。

このからくり人形の新しい仕掛け「ゼンマイ仕掛け」を考案、

水力、重力、空気圧など、様々な力を利用したからくり人形作りを得意とし、

次々とアイデアを出して大評判となりました。

 

20代には、九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知れ渡ります。

彼の作品で現存するからくり人形として有名なものは

「弓曳童子」と「文字書き人形」があります。

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これらは、からくり人形の最高傑作といわれており、その腕は今でも語り継がれています。

「弓曳童子」は、4本の矢の内、1本だけワザと射的を失敗するように、

精巧なからくりにあえてミスの演出を加えているそうです。

あえてミスを加えることで、より人々から親しみを生み、喚起に包んだ興業。

本当に天才なのですね。

 

大阪・京都在住時代に田中久重が行った発明とは?

1830年代、各地で藩政改革が行われるようになると、

からくり人形による興行も難しくなってきました。

そこで実用品の製作・販売を始めるために、1834(天保5)年大阪の伏見に移り、

懐中燭台(1834)、無尽灯(1837)などを考案し

「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博しました。

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「無尽灯」は、空気の圧力を利用し、菜種油が管をつたって灯心に昇る仕掛けは、

長時間安定した灯りを供給し、商売や生活水準の向上に一役買ったといわれています。

1851(嘉永4年)に京都へ移り、天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学びました。

天文家としての学識を備えた田中久重は、

最も優れた職人のみに与えられる「近江大掾(おうみだいじょう)」の称号を得ました。

「田中 久重 万年時計」の画像検索結果

この時期、「万年自鳴鐘(=万年時計)」を完成させています。

これは、現在国の重要文化財に指定されています。

 

蒸気船(スクリュー式)の雛形(1852)、蒸気車・蒸気船(外輪式)の雛形(1855)、

アームストロング砲(1863) などを発明しました。

「田中 久重 蒸気船」の画像検索結果

田中久重が礎を築いた、東芝の前身、田中製造所とは?

明治維新後は、75歳時、1873(明治6)年に上京し、

1875(明治8)年に東京・銀座に電信機関係を扱う「田中製造所」を設立しました。

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電話機(試作) (1878)に発明しています。

 

実は、他にも数多くの発明を行っている田中久重。

製氷機、ネジ切りゲージ、自転車、精米機、写真機、昇水機、改良かまど、

旋盤楕円削り機、煙草切機、醤油搾取機械、種油搾取機、報時機など、

当時、これがあったらいいな・・・と思ったアイデアを次々と発明しています。

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田中久重が語った、物作りの先駆者としての言葉とは?

発明を次々にしていく、田中久重。

彼には妥協はありませんでした。

その中で、印象に残る言葉を残しています。

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「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」

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最後に

いかがでしょうか。

 

実は田中久重は、実の子と孫を不慮の事件に巻き込まれたことにより失いました。

そのため、当時、弟子であった田中大吉を養子に迎えて、その子に久重を名乗らせたそうです。

順風満帆な人生だったとは言えない田中久重ですが、

彼の絶えなき研究し、開発に向けたアイデア、欲求などは、

多くの日本人に勇気・希望・発明・研究の足掛かりになったと言えるでしょう。

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先人が残した知恵を糧に、私たちも日々を感謝し、

一つでも多く何かできる人になりたい・・・と思いました。

 

長文を読んでいただき、ありがとうございました。


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