約40年前のトルコ航空による奇跡の日本人救出劇のこと、
約130年前の日本の偉人「トラジロウ」さんのことをきちんと知らない私。
そこで気になり、調べてみました。
あるきっかけでトルコと友好を結び、
今でも親日でいてくれる国があることはとても嬉しいことです。
今回は、その日本人偉人のこと、救出劇のことなどについて
紹介していきたいと思います。
是非最後まで読んでいただければ幸いです。
33年前のトルコ航空による「奇跡の日本人救出劇」とは?
1985年3月、そのピンチが訪れました。
当時は、イラン・イラク戦争の真っ只中でした。
イランのサダム・フセイン大統領は、
「今から40時間後をタイムリミットとしてこれ以降終戦までの間、
イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機であろうと民間航空機であろうと、
いかなる国の機体であろうとすべて撃墜する」
という布告を突然宣言したのです。
世界各国は、驚き慌てました。
各々の国が自国民を救出するために救援機を出し、自国へと退避させたのです。
ところが・・・
日本政府だけ、素早い決定ができず、飛行機を飛ばす時間がなく・・・
各国にかけあいますが、各国必死で絶望的な状況でした。
そして、イラン在駐215名の日本人が空港に取り残されてしまいました。
期限の40時間はみるみる迫ってきます。
イラン大使館の駐日大使は、
日頃から親交のあったトルコ大使館の大使に窮状を訴えました。
すると、この状況にトルコは即座に対応、
オザル首相は特別機を2機飛ばしてくれることになりました。
トルコ航空をイランに派遣し、タイムリミットの僅か1時間15分前!にイランを脱出、
トルコ領空へ216名の日本人全てを退避させてくれました!
下手をすると、タイムリミットに間に合わなかった状況、
自国民以外の救出に命をかけて助けてくれたのです。
実はこのイラン大使館の駐日大使は、
こんな言葉をトルコの大使が言ったと後に語っています。
「あの時の恩を返す時が来た」
そう、あの時とは、遡ること約130年前の日本沖で起きた
あるトルコ人救出劇のことを指していました。
120年前に起きた、事件とトルコ人救出劇とは?
1890年に日本とトルコの親善のため、トルコ戦艦エルトゥールル号が来日しました。
明治天皇に拝謁した後、9月15日に横浜港を出航しました。
実はこの時、台風が来る前兆があり、日本側は止めたそうですが、
そのまま出航してしまいました。
というのは、横浜で一部の乗組員がコレラに罹患し、
帰国予定が大幅に遅れていたこと、
帰還費用も乏しくこれ以上日本に留まれない
事情もあったようです。
そして翌日、事件が起きます。
エルトゥールル号は、和歌山県大島樫野先付近で台風に遭遇し、座礁しました。
この時にエルトゥールル号にはトルコ人650人が乗船しており、
全員海に投げ出されたそうです。
生存者は、わずか63名(内8名は負傷、38名は重傷)の大惨事でした。
大島村民は、村を上げてトルコ人の救出、負傷者救助に当たりました。
台風により村全体に食料はわずかしかなかったそうですが、
浴衣などの衣類、卵・サツマイモ、非常食用のニワトリすら食事として提供し、
献身的に生存者の救護をされたそうです。
その後、生存者は神戸の和田岬消毒所に収容されました。
山田宗有(寅次郎)はどんな人?
では、なぜトルコの人たちはトラジロウのことを偉人として扱っているのでしょう。
その話をする前に、まずは寅次郎のプロフィールを紹介します。
山田 宗有(やまだ そうゆう)さんは、
本名、山田寅次郎さんです。
1866(慶応2)年8月23日生まれ- 1957(昭和32)年2月13日死去されました。
職業は、実業家・茶人。
沼田藩の江戸上屋敷で沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の
次男として出生しました。
茶道宗徧流の第8世家元であるが、
家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で
実業界でも活躍されました。
1892(明治25)年にエルトゥールル号遭難事件の
義捐金を届けにトルコに渡って以来、
日本とトルコの交流に深く関わりました。
1881(明治14)年に宗徧流家元山田家に養子入りしました。
宗徧流は、寅次郎が生まれるより以前に6世家元の山田宗学が死去し、
その妻が7世を継いで山田宗寿と称していましたが、
宗学夫妻の間には後を継ぐ子供がおらず、
後継ぎとして寅次郎が迎え入れられたそうです。
しかし彼は茶道の家元を若くして継ぐ意志に乏しかったらしく、
1883(明治16)年に家元で義母の山田宗寿が亡くなった後も家元を襲名せず、
茶道は高弟の中村宗知に任せていました。
この時寅次郎の興味があった言論界に入り、
陸羯南、福地源一郎らと交流を深めました。
東京で書生として暮らしながら政治活動・出版事業に手を広げ、
幸田露伴の処女作を出版社の金港堂に売り込んだこともあったそうです。
なぜトルコの人たちから山田宗有(虎次郎)は偉人と言われているのか?
では、本題に入りましょう。
1890(明治23)年、オスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事件が
日本中に大きな衝撃を呼びました。
当時24歳で多感な青年であった寅次郎は、衝撃を受けました。
民間から義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立ち、
もともと親交のあった日本新聞社の陸羯南に働きかけて募金運動をはじめました。
日本中で演説会をして回り、
2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当)の寄付を集めたそうです。
当初はトルコへ送金するつもりで、
その方法について外務大臣の青木周蔵と面談します。
トルコに自ら持参することを勧められたそうです。
実はもともと海外に興味があり、漢学・英語・ドイツ語・フランス語などを
取得していた寅次郎は、その勧めに飛びつきました!
1892(明治25)年4月、寅次郎は義捐金を携えて
オスマン帝国の首都イスタンブールに到着し、外相を訪ねて義捐金を届けました。
このことは、瞬く間にトルコ国内に知れ渡ります。
寅次郎が民間人でありながら遠い日本から義捐金を持ってやって来たことで、
イスタンブールの官民から熱烈な歓迎を受け、
皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会も得たそうです。
その際、寅次郎が皇帝に献上した生家、中村家伝来の甲冑や大刀は、
現在もトプカプ宮殿博物館に保存、展示されています。
その後、寅次郎はアブデュルハミト2世から士官学校での日本語の教育や
東洋の美術品の整理を依頼され、イスタンブールにしばらく滞在していました。
この滞在中、トルコに愛着を覚えた寅次郎は、
イスタンブールに留まって事業を起こすことを決意します。
1899年に一時帰国し、
大阪の中村商店の経営者である中村久兵衛の娘・中村たみさんと結婚されます。
子供さんも設けられますが、妻子は大阪に置いたままで、
日本に落ち着くことはほとんどなかったそうです。
寅次郎は、イスタンブールにおいて日土両国の政府関係者と繋がりを持ち、
トルコにおける日本の便益を図っており、
いわば日本の「民間大使」と言っても過言ではありません。
トルコ滞在中の寅次郎は、アブデュルハミト2世から
トルコ人たちの呼びやすいムスリム(イスラム教徒)名をつけてもらい、
トルコ人の友人たちからはムスリム名の
「アブデュルハリル山田パシャ」
と呼ばれていたそうです。
最後に
いかがでしょうか。
120年前にトルコの遭難者の方たちを献身的に支えた大島村の方をはじめ、
日本中から義援金・義援物資が病院に届き、後に日本の船でトルコに戻った際も
手厚い支援をしてきました。
私が感動したことは、
そのことを大切に覚えていてくれたトルコの人たちです。
イランに救援機を飛ばした際、トルコ航空はパイロットを募りました。
いつ爆撃を受けてもおかしくない時間帯、危機迫る中、
トルコ航空のパイロットは、
全員、自分が飛行機を操縦したいと立候補してくれたそうです。
心の底から、日本の国民、トルコの方々全ての人に
感謝と拍手を送りたいと思います。
今回のことで改めて自分を含めて人との接し方、
他の人を思う心を考える良い機会になりました。
これからも永遠に・・・トルコの方たちと日本の方たちがずっと仲が良いことを
切に願っています。
長文を読んでいただきありがとうございました。
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