テレビ番組、「先人たちの底力 知恵泉」(毎週火曜日22時00分~22時45分)で、
2018年10月16日に
「人生を切り開く化学式『日本薬学の父』長井長義」博士
について放送があります。
明治時代に、
あるきっかけで化学を知ることで興味が湧き、海外まで行って学び、
日本に新たに「薬学」を根付かせた長井長義博士。
気になり、調べてみましたので・・・紹介したいと思います。
是非最後まで読んでいただければ幸いです。
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日本薬学の父、長井長義さんとは?
1845年7月24日(弘化2年6月20日)誕生、
1929年(昭和4)2月10日に死去されました。
阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現・徳島県徳島市中常三島町2丁目)出身
奥様は、ドイツ人テレーゼさん、お子様は3人で
長男・亜歴山(アレキサンダー)さん、長女・エルザさん、次男・維理(ウィリー)さん
1866年徳島藩主の命にて長崎留学、
1871年日本政府の第一回国費留学生としてドイツ・ベルリン大学留学、
帰国後、東京帝国大学(現東京大学)医学部薬学科教授、
半官半民の大日本製薬合資会社(現・大日本住友製薬㈱)の製薬長、
1887年日本薬学会初代会頭に就任されました。
明治時代における日本の化学、薬学の指導と発展に尽力しました。
女子教育の発展にも貢献し、日本女子大学校開校に際し、
成瀬仁蔵さんに懇請されて本学教授に就任、香雪化学館を設置し、
女性科学者の育成にも励みました。
明治期、それまで日本になかった本格的な化学を学び、
日本に新たに「薬学」を根付かせた博士。
日本薬学会初代会頭で、日本の近代薬学の開祖でもあります。
日本薬局方の整備にも尽力しました。
実は以前、日本製医薬品は「質が悪い」と敬遠されていたそうです。
長井さんは、その日本製医薬品の大幅な品質向上に寄与し、また、
日本各地の薬剤師に直接指導も行いました。
医薬分業と薬学専門学校の官立化にも大きく貢献し、
「日本薬学の父」と呼ばれるようになったそうです。
長崎留学時、化学との出会いがあった?
1866年藩主の命令により、鎖国中のため、
外国の知識を本格的に学ぶため、長崎に留学しました。
精得館に入学し、西洋医学をマンスフェルト(C.G. van Mansvelt)から、
化学をボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)から学んだそうです。
実は、この長崎留学中に、化学に惹かれる運命の瞬間がありました。
医学を漢方で学んできた長井さんでしたが、下宿先が上野彦馬さん宅だったのです。
この上野彦馬さんは、後に「日本写真界の開祖」となる方です。
上野さん宅で化学実験を勉強することとなり、
このことはドイツ留学で非常に役に立つことになり、
ますます化学の面白さ・魅力にはまっていったそうです。
ドイツ留学中、化学・薬の研究をするのは、後ろめたかった?
ベルリン大学留学中、
ヘルムホルツの植物学、ホフマンの化学の授業などに影響を受け、
ホフマンに師事して化学・薬学を学び、化学実験などに没頭した、永井博士。
因みにホフマン教授は、リービッヒの高弟で、化学染料の合成で成功し、
ドイツを世界最高の化学工業王国に導いた方です。
長井博士は、研究員として、助手として働きますが・・・
当初の留学の目的は、「医学を学ぶための国費留学」
そのため、医学・医師を目指すという道から外れており、後ろめたかったそうです。
また、医師である父の後を継がないといけないという使命もあり、
迷いがありました。
しかし、青木駐独代理公使などに相談し、
「医師も薬も病気を治すもの」と黙認されたそうです!
その後、日本政府からの帰還要請までの15年、
ドイツでホフマン教授と研究を続けられました。
気管支拡張剤、エフェドリンを発見!
漢方薬の研究と成分抽出を行い、業績を上げています!
1885年、漢方のマオウ属(麻黄)からのエフェドリン抽出に成功し、
後に大量合成が可能であることを証明しました。
これは、多くの喘息患者の苦痛を取り除くことになった大功績なのです!
エフェドリンは、現在でも「誘導体 dl-塩酸メチルエフェドリン」
という成分名使用され、
「気管支拡張剤」として市販の感冒薬(風邪薬)にも配合されています。
また、1893年には、このエフェドリンからメタンフェタミンを生み出しています。
長井博士の薬学・薬化学を学ぶ人たちへ送る言葉に感動!
1885年、東京薬学会(現、日本薬学会)の例会で、
長井長義博士が演説を行いました。
その中の一説で、心に残る言葉がありました。
昔、ギリシアの王が、演劇を見に行ったところ、既に観客が一杯で、王座とすべきところがありませんでした。演劇座主が恐縮していた所、王は、「席の違いによって王であるかどうかが決まるわけではない。自分の座る席がすなわち王座なのだ」と言い、庶民の席についたそうです。
私は諸君とともに薬学という椅子に座り、身を粉にして働き、たとえ東洋の片隅に在るとも、日本の薬学会を燦然と輝かせることを希望します。
そう、会場に来ていたすべての人たち、
特に薬学を学んでいる若者に呼びかけたそうです。
この演説は、若者、薬学者に希望を与え、かつ、
当時の日本薬学における状況、長井さん自身の立場と役割を明確に述べており、
決意が感じられました。
日本薬学・医療界の現在の発展は、
このような偉人とそれに続く若い方たちの情熱!で
支えられていると思います。
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最後に
いかがでしょうか。
日本薬学の父、長井長義さん。
幼少時代に母を早く亡くし、医師である父による様々な知識、英才教育を受けました。
常に前を向き、強く不屈の精神で、幕末~明治の時代を生き抜いてこられました。
「失敗しながら未知に挑め!」
「失敗してもいい。自分で考え挑戦することこそ大切!」
という、長井さんの言葉からも、薬化学、女子教育向上など、
全てのことが、チャンスであり、何かを掴むことの大切さを改めて感じました。
彼の意思は、今でも多くの日本・世界の方たちの中で息づき、
今後も人のため、益々の発展のために影響を与えていくことでしょう。
今回は、日本薬学の父と呼ばれる長井長義博士のプロフィール、薬化学での発見
などについて紹介しました。
次の記事では、日本薬学の父と呼ばれる長井長義博士とドイツ・テレーゼ夫人の
国際恋愛・結婚、女子教育について紹介しします!
⇒ 日本薬学の父、長井長義とドイツ・テレーゼ夫人!国際恋愛・結婚、女子教育[先人底力]
参考になる部分も多いと思うので、ぜひ一度目を通していただけると幸いです。
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