2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生しました。
当時の映像・写真を目の当たりにし、
ショックを受けた人も数多くいたことでしょう。
特に鮮明に記憶しているのは、
世界貿易(ワールド・トレード)センタービル(以後W.T.C)2棟の崩落。
ニューヨーク(以後N.Y)に行ったことも調べたこともなかった人でも、
あの110階建てのビルが次々と崩落する瞬間の映像は
恐怖で動けなかったことでしょう。
911アメリカで同時多発テロ事件の犠牲者は2996名と言われ、
また救助に向かってビルの倒壊に巻き込まれ、
命を落とした消防士さんは343名と言われています。
また、多数の負傷者をだし、精神的にも肉体的にも
大きくダメージを受けた方は数えきれません。
今回は、そんな絶望的な現場に唯一入ることが許された、
日本人消防士の方々がいるということを知りました。
その方たちのことに興味があり、いきさつ、救助活動などについて
調べたことを紹介したいと思います。
ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。
まずは、911アメリカで同時多発テロ事件とは?
アメリカ同時多発テロ事件(September 11 attacks)は、
2001年9月11日にアメリカ合衆国で
同時多発的に実行されたテロ事件です。
2001年9月11日朝(現地時間)、
マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス、
ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、
モハメド・アタを中心とするアラブ系のグループにより、
ほぼ同時にハイジャックされました。
彼らは操縦室に侵入してパイロットを殺害、自ら操縦して、
2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)を
N.Yのマンハッタンへ、
残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)を
ワシントンD.C.へ向かわせました。
容疑者は、イスラム過激派テロ組織のアルカイダで、
ハイジャック後、同時に4ヶ所の自爆テロ攻撃をしました。
4ヶ所のテロ標的とは、
ワールドトレードセンターの北棟と南棟、
アメリカ合衆国国防総省本部庁舎ペンタゴン、4つ目の標的は不明です。
なぜ不明かというと、4機目に居合わせた乗客らがハイジャック犯に反撃し、
ペンシルベニア州に墜落したためです。
一連のテロ攻撃による死者は、2996人、
負傷者は6000人以上をいわれています。
現場で活動した日本人消防士とは?なぜボランティアをしたのか?
アメリカ人以外では唯一、WTCの崩落現場に足を踏み入れた
日本人消防士ボランティアの発起人である、
志澤公一さん(横浜市消防隊)は語られています。
「肉片、指、耳とか、バラバラの骨とかが散乱していました」と。
志澤さんは、1995年から世界中の警察や消防が専門技術や体力を競う
「世界警察消防競技大会(World Police and Fire Games)」
に参加しており、同年も参加されていました。
大会通じて世界中の消防士に友達がおり、特にNY消防隊のデビットとは、
彼の人柄もあり、仲が良かったそうです。
911のテロ事件発生後、
NYのこと、仲間の消防隊、デビットのことが気になった志澤さんは
安否確認のためメールをしました。
約2週間後に帰ってきたデビットのメールに志澤さんは、
友人の無事がわかり喜びました。
実はそのメールの内容を読み進めると・・・
「仲間が行方不明になっている。助けてくれ」
という、支援要請だったのです。
この友人の心からの声に動かされた志澤さんは、
すぐに行動に移すきっかけになりました。
一緒に競技大会に出場したメンバーに声をかけ、集まった消防官は11人。
皆、公務ではなく、休暇をとって個人ボランティアとして参加しました。
また、仕事の都合で行動できなかった他の仲間は、
義援金を彼らに手渡したそうです。
早速NYの消防局を訪れ、友人のデービットを再会しました。
デービットは、日本人消防官が現地で救助活動が出いるように
NY州の許可を取ってくれていたのですが、
その当時始まった空爆などの敵地での戦争の激化から、
アメリカ政府は「消防」の目的とはいえ、
事件が起きた中心部への外国人の立ち入りは、厳しく制限され、
許可がおりなくなってしまいました。
困っている時に出会ったのが、
同じ消防局に勤める、「不死身のミッキー・クロス」さん。
実は、彼は911当日、WTCの倒壊に伴い、生き埋めになりましたが、
無事に救出された数少ない生存消防官でした。
ミッキーさんが、自分と一緒になら現地に入ることができる!と言って、
皆と同行してくれたのです。
何とか現場付近まで行けましたが、
やはり現場主任に立ち入りを断られてしまいます。
なんでもしたい、何とかしたい・・・その熱い思いを訴えますが、
受け入れてもらえず・・・あきらめかけた時のことです。
一人の高齢の牧師さんが、割って入って来ました。
その牧師さんは、騒ぎを聞きつけて近寄ってきたのですが、
日本から駆けつけた消防官達だと分かると、ある話を始めました。
「私が第二次世界大戦に参加しました。兵士だった時、沖縄に上陸して
日本人に銃口を向けたことがあります。
そんな私たちを助けたいのですか?」
志澤さんは、「もちろんです」と答え、固い意志を示しました。
その後、牧師さんは「待ちなさい」と言って、
現場の監督と一緒にどこかに行ってしまいました。
15分程経った頃、現場で動きが。
なんと、日本人消防官の現場立ち入りが許可されたのです。
実はこの牧師さん、NY消防官のOBで、
退職後牧師になられた方だったようです。
彼らの熱い熱意が、牧師さんを動かし、
直ぐに異例な特別許可が出ました。
実際に現場で働いた経験は、壮絶だったようです。
事件から1ヶ月経っていたにもかかわらず燃え続け、
瓦礫の山が連なっていました。
生存者、何か手がかりを掴みたいと皆果敢に作業に没頭されました。
作業を終えてホテルに帰る道すがら・・・
道ですれ違うアメリカ人たちが、志澤さんたちの姿を認めると、
駆け寄ってきて、口ぐちに「ありがとう」と声をかけ、
握手を求められました。
それは、地元のテレビ局が日本人消防官のことを
報道したからだったそうです。
また、夜、地元ニューヨークの消防官が、
活動をねぎらう簡単な夕食会をしてくれた時のこと。
レストランで注文を決めている時、突然、店にいた男性が立ち上がり、
店内に向かって大きな声で叫びました。
「日本から私たちを助けにきた消防官のボランティアが、ここにいるぞ!」
それまでにぎやかだった店内が一瞬静まり、
すぐに全員が拍手喝采しました。
その後、まだ注文していないにもかかわらず、
食べきれないほどの料理が次々と
テーブルに並んだそうです。
最後に
いかがでしょうか。
後に志澤さんたちはこう語っています。
「いつもは陽気な彼らが、まったくしゃべらない。
黙々と瓦礫を取り除いている様をみて、あのテロが彼らに与えた
ショックの大きさを感じました」と。
強靭な肉体、精神力を持ち合わせていると思われる消防官ですら、
絶望の淵で疲労困憊していました。
実際に日本人消防官が行って活動した時間はごくわずかですが、
現地に向かったこと、
同じ時間を共有できたこと、
同じ仲間を思い話をできたこと、
数々のことが、当時、NYで活動していた人々の支えになったのでしょう。
特に弱音を吐ける仲間がいる、
何かの時に駆けつけてくれるということが分かっただけでも
多くの人に勇気を与えたと思います。
日本人消防官の方々の勇気、
その方を支える家族の方たちをはじめ、皆が・・・
平和で笑顔で毎日を幸せに過ごすことができる時が
早く来ることを願っています。
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