テレビ番組「先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)」にて
2019年3月26日(火) 22時00分~22時45分の放送で
「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」の放送があります。
戦前~戦中~戦後の激動の時代に女性は婦人参政権を持ちませんでした。
そんな中でも弁護士になることに憧れ、志し、
女性が弁護士になるための道を切り開いた方がいます。
その方が、法律家の三淵嘉子さんです。
女性として初の弁護士となった3人の内の1人で、
戦後、女性初の裁判所長になられました。
どのような方か、気になり調べてみましたので紹介したいと思います。
ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。
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法律家、三淵嘉子さんの生い立ちは?
お名前は、三淵 嘉子(みぶち よしこ、旧姓は武藤)さんです。
1914(大正3)年1月30日生まれ、 1984(昭和59)年5月28日死去
明治大学女子部に入学し、弁護士になるために猛勉強をされました。
1938年同窓の2人と共に高等文官試験司法科試験に合格し、初の女性弁護士になられました。
1940年に弁護士を開業しました。
1946年に最初の夫である和田芳夫さんが戦病死されます。
1947年裁判官採用願いを司法省に提出しますが、裁判官には採用されず、司法省民事部等に勤務しました。
1949年に石渡満子さんと共に、初の女性裁判官に就任します。
1952年名古屋地方裁判所で初の女性判事となります。
1956年裁判官の三淵乾太郎さんと再婚し、三淵姓となられました。
1972年新潟家庭裁判所で初の女性家庭裁判所長となり、浦和家裁、横浜家裁の各所長を務められました。
1979年に定年退官し、弁護士となり、労働省男女平等問題専門家会議座長を務められました。
初の女性弁護士の一人であり、初の女性判事及び家庭裁判所長になられました。
1936 年の改正弁護士法施行により、男子のみに認められていた弁護士という職業が
女性にも道を開かれました。
1929 年に明治大学は、法律を学ぶ女子専門部を創設し、
その卒業生に同大学法学部への進学を認めたことから、
女性が法律を学べる唯一の大学でした。
そして念願かなって三淵さんも入学し、弁護士になるべく猛勉強されました。
明治大学同窓の2人とは、中田正子さんと久米愛さんのことです。
三淵さんは、宇田川潤四郎さん、内藤頼博さんと共に各々の理想とする司法の姿を胸に、
家庭裁判所第一世代の裁判官として活躍されました。
人も物も足りない状況(庁舎なし、電話なし、車も自転車もなし、参考書もなし、
鑑定後の謝礼金を支払うお金がない・・・など)を切り拓いて、
家庭裁判所をつくりあげた開拓者でもあるのです。
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最後に
いかがでしょうか。
三淵さんが進んできた女性弁護士、法律家の道は大変なものでした。
男子しか認められていなかった職業を、時代の流れが後押しし、
女性初の法律家、弁護士、裁判官、家庭裁判所長と経歴を重ねられてきました。
一重にご本人の熱い志と情熱、不屈の精神の賜物と言えるでしょう。
現代は男女平等、差別なく色々なことにチャレンジできます。
今回、三淵さんのことを学ぶことで、先人が築いてきてくれた男女雇用機会均等など
のことを学ぶことができました。
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