秋元正博さん現在?スキージャンプ、レジェンド葛西紀明の憧れ!交通事故・大けが後復活

テレビ番組「消えた天才★5大レジェンドが勝てなかった天才大追跡!3時間SP★」で

2018年12月16日(日) 18時00分~20時54分 に放送されます。

 

その中のコーナーで、「スキー葛西紀明が唯一憧れた天才!」のコーナーがあります。

このスキー・ジャンプのレジェンド葛西紀明が

人生で最も影響を受けた悲劇の天才ジャンパーで

レジェンド・葛西よりも、髙梨沙羅よりも国内で優勝している

というジャンプの天才は、衝撃のアクシデントによって表舞台から姿を消していた・・・

とあり、気になって調べてみました。

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この消えた天才は、秋元正博さんのことのようです。

秋元さんは、ある事件を起こし、スキージャンプの代表選手を続けることが

できない状況がありました。

また、ジャンプ=危険なスポーツというトラウマを日本人の間に意識づけた・・・

大けがをしたこともあります。

今回は、それらのことについて紹介していきたいと思います。

是非最後まで読んでいただければ幸いです。

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レジェンド葛西紀明が憧れた悲劇の天才ジャンパー、秋元正博さんとは?

秋元さんのプロフィールは・・・

名前は、秋元正博(あきもと まさひろ)さん

1956年9月3日生まれ

北海道札幌市出身

北海道岩見沢緑陵高等学校、明治大学政治経済学部卒業

現役時代は地崎工業(現岩田地崎建設)に所属した、日本の元スキージャンプ競技選手です

2005年に政治家を目指して選挙に立候補されましたが落選されました。

現在のことは、番組中にご本人が語られるかと思います。

「スキー 秋元 正博」の画像検索結果

1970年代後半より1980年代中盤にかけて、

日本スキージャンプチームの中心選手として八木弘和選手とともに活躍されたのが、

秋元さんです。

1979年全日本選手権90m級で優勝。

1980年レークプラシッド冬季五輪70m級4位。

1982年大会出場停止処分をうけますが、

1984年国内試合に復帰し23戦15勝。

1986年世界フライングジャンプ選手権で転倒し骨折、リハビリ後に翌年復活。

1989年引退。

ワールドカップ4勝をふくめ通算66勝されています。

 

1984年に開催されたサラエボオリンピック(旧ユーゴスラヴィア)にもエースとして

メダルを期待されるほどの代表候補選手でしたが、

ある事件をきっかけに出場を辞退しました。

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秋元さんが引き起こした事件とは?

その事件とは・・・1982年に起こりました。

北海道瀬棚町で運転中、秋元さんの不注意により、交通死亡事故を起こし、

警察に逮捕されました。

事故の遺族側から嘆願書が提出され、約1年、試合出場停止処分を送られました。

 

謹慎処分後、スキージャンプの世界に復帰されました。

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事故前は、サラエボオリンピックのスキージャンプ代表候補と言われていましたが、

謹慎明け直後のオリンピック出場は・・・

本人の思うこと、外部からの圧力もあり、

自ら代表辞退を「自粛」として宣言されました。

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さらに苦難が続く・・・ジャンプは危険なスポーツと再認識したアクシデントとは?

1986年3月8日、オーストリアのバートミッテルンドルフでのことです。

 

スキーフライング世界選手権に出場した秋元さん。

(スキーフライングとは、ラージヒルよりも大きい台で200m近く飛ぶ競技)

第1日の2本目、秋元さんは空中で大きくバランスを崩して大転倒、

空中からランディングバーンに叩きつけられました。

この際、右足首を複雑骨折する重傷を負ったのです。

スキージャンプ競技継続が絶望視されるほどの大けがで、

それを見ていた日本人にもスキージャンプは危険なスポーツだということを再認識させ、

かつトラウマのように言われるほど・・・でした。

 

しかし執念のリハビリで翌年復活、

復帰戦となった第58回宮様スキー大会国際競技会で3位に入り、

伊藤杯 宮の森ナイタージャンプ大会では優勝した逸話もあります。

 

1988年カルガリーオリンピックの選考メンバーから漏れ落選。

翌1988年-1989年シーズンをもって原田雅彦さん、葛西紀明さんと

入れ替わるように32歳で引退されました。

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秋元さんとレジェンド・葛西紀明さんの関係は?

フライング事故で、秋元さんは必死のリハビリで復活を果たしました。

実はこのリハビリの時に秋元さんが北海道で見出された逸材として頭角を現したのが、

当時中学生だった葛西紀明選手だったのです!

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葛西選手は、周囲の期待通り頭角を現し、高校時代からその存在は卓越!

1991年、秋元さんが在籍したスキージャンプの名門である地崎工業に入社し、

1998の経営不振によるスキー部廃部まで所属されました。

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最後に

いかがでしょうか。

 

今回は、悲劇でが重なり、表舞台から去った秋元さんについて紹介しました。

彼の飛行スタイルは、非常に美しい飛形を描くといわれ、天才肌のジャンパーでした。

技術的には空中でのバランス感覚が素晴らしく、

両腕を上手く使って前傾のバランスを取るアプローチのスタイルは、

その後ジャンプを跳ぶ後輩たちもまねたそうです。

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スポーツ選手として活躍されましたが、

一流と言われながら去ったスキージャンプの世界。

悲劇ではありますが、同時にそれらを克服・償い、

未来へ復活することへの執念と努力も感じることができました。

秋元さん、また今後のスキージャンプ界で活躍する選手の方々が末永く健康に

競技ができることを・・・心より願い、応援していきたいと思います。

長文を読んでいただき、ありがとうございました。

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